昭和48年08月07日 夜の御理解



 朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さ、それがあの日に日に、さらな信心をさせて頂く者の、所謂日々がこうだと。最近の西岡先生が信心振りと、いうものを見ておりますと、今晩のお話の中にもそれを、感じ取る事だでけるのですけれども、まさしく朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さと言うところを、地でいっておるような気が致します。何をというても今朝の御理解が、今までで最高に有り難かったと言えれる日々でなからなければいけない。
 今日ん御理解よか、昨日ん御理解のが有り難かったちゅなもんな、とにかくそのご理解、日に日に頂くご理解が、もう今日のご理解が最高と頂け止めれるその心が素晴らしい。ね、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さ、今日私ある人のそりゃもうほんとに死ぬか生きるかと言った様な大変な問題ですから、お参りをしてくるご理解を頂くと元気がでる、心が生き生きしてくる。
 その方の事をお願いさして貰いよったら、朝顔がぱっとしかもあの紫の朝顔が咲く所を頂くんです。・・?のような生き生きした具合なんです。だから朝お参りをする、ご理解を受けるそしてその今、もう自分が直面しておられる難儀な心配な問題という問題が、これにによって信心がでける、これによっておかげを頂く徳を受けると言う様な心が生まれてくる。丁度朝顔がそれこそ露を含んで咲いたような感じである。所がその昼頃になってくると、私が今日頂きますと、それはしおれてしまっておる。
 そこにです、私は昼の忙しさというものが、欠けてくるからじゃないかと思う。昼の忙しさ、もう何もかにもわすれて御用に打込む。それは何もかにも忘れて言うならば、教えに取り組む。そこから今日も大変いそがしい一日であった、苦しい一日ではあったけれども、さ御神前にでらせて頂くとです、もうそれこそ又あの夕顔があの、ほのかにねあの夕の、夕方のまたたずまいの中に、もう白くね咲きますようにね、夜の有り難さというものがよみがえって来る。
 私は信心はそれでなからなければいけない。例えて言うともう心配で心配で堪らない事がある。お参りをするご理解を頂く、親先生のみ教えを頂くと、是でよいんだと心に安心がでける。けどももう帰りがけにはまた、いろんな不安になってくる、心配になってくる。その心配になってくるとが、実を言うたらおかげを崩す事になる。そこではあ是ではいけない、と昼の忙しさと言う所に、あの持っていかなきゃいけない。でないとその夜の有り難さにつながらない。
 例えば今中村さんなんかの場合のなんかはそうじゃないかと、この年で毎朝参って見える。ね、康代さんがもうほんとに死ぬか生きるかと言うとこを通っておる。はもう親先生、お願いじゃけん大丈夫がの、と言えれるときと今度は、その恵美子さん、どげんするの、そんなら病院でんはよう行ったがようはなかの、ち言いたい時には崩れてしまとる。所謂折角の朝顔のそれが、もうしおれてしまっておる時である。
 だからそれではいけない。とにかく心配する心で信心をせよと仰るから、その心配がその忘れられるくらいに一生懸命御用に打ち込む、信心込むと言う事が、もうそういう特別なおかげを受けなければならんときには、一番大事な事である。朝は安心しとっても、昼は不安になった、もう不安で不安で堪らない。それがそのまま夜につながると、もう夜も眠られんと言う事になるのです。だからそれではおかげは受けられません。
 もうそれは愈々の問題に取り組んだときです。それはもうそうあるのが当たり前です。けれどもその朝頂いた、その生き生きとした安心の、喜び心の中に元気な心が沸いてきておるとき、その心を維持するために、修行さしてもらう。そんためには朝の清々しさ、昼の忙しさて言う所を大事にしなければいけない。そこには夕方はあ、おかげを頂いて有り難かった、今日も一日急がし事であった、今日もあの事に取り組んで一生懸命だった、もうそれこそ、ままよと言うい事の心が生まれてくる。
 そのままよという心がです、それこそ夕顔の花のような感じで、有り難いで休まれる、でまた、朝生き生きとした目覚ましのおかげを頂いて、朝の清々しさを受ける事がでける。そういう信心を繰り返させて頂きたい。西岡先生の話を最近聞いておりますとです、そういうものを感じるわけですね。ほんとに例えば、今日なんかでもまあいうならば、もう自分はそん人から言うと、お父さんぐらいな年が違う人達から、例えば色々注意を受けてもです、それを非常に素直に有り難しと受けておる。ね。
 その受けれる心なんだ信心とは。どう言う様な事であっても、それをああ有り難いとこう受けられる心、それが朝の清々しさの中にはある。所謂生き生きとした信心の心でするとそれが受けられるのである。だからその心をなら、持続させて頂く為に、昼の忙しさと言う所を通らせて頂いて、これがなんでもないときにゃ、そうほんとにそう感じないけれども、中村さん当たりのようにもう日々がです、もうその康代さんの事を思うただけでも、心配になるその心配の心を神様に向ける。
 安心がでけるその安心を持続させて行く為の、昼の忙しさ夜の有り難さと言う所を、大事にしていかなければならない。ただ朝の間だけは安心がでけ、ちようど朝顔の花のようなもの、いやそれを持ち続けると言う事は、朝顔の花に出来ない様に、私共もそりゃ人間である、やはり不安が募ってくる心配が募ってくる。いやそう言う時には、それを振り捨てられるだけのいうならば、昼の忙しさと言った様なものに、取り組まなければならん。中村さんあたりのような。
 お年寄りの方が仕事に取り組むちゅう訳にはいかんから、それこそ教えに取り組むと言った様な心の働きを、愈々生き生きとさせて頂いて、そして夕方にはです、ね、夕顔の花が咲くような、ね。それは大丈夫がのおかげ頂くがの、と言った様なものではなくても、所謂これ程お縋りをさせて頂いての事であるから、右左はもうあなたにお任せしたという喜びそういう安らぎ、それが私は夕顔の咲く様なものではなかろうか。そこに安眠のおかげが受けられる、明日の清々しい目覚ましが約束されると言う事になるですね。
   どうぞ。